2ちゃんねる AA大辞典
2016年3月20日 家族・子育て
インターネットに出会ってようやく、自分は虐待されていたんだ、とはっきり自覚した。自分と同じような、あるいは自分より軽度な虐待の他人の経験を読むことで、ようやく客観視できるようになったのだろう。
いまの結婚前には、相変わらず意地悪姑みたいな実母へ対抗する手段を求めて嫁姑関連の書き込みを読んでいて、夫に「うちの、母親、そんなことしないから大丈夫だよ」と、勘違いせせてしまったこともあるわ
さいきんも、自分が書いたかのような一説を見つけた。
> 私の80点のテストは溜息吐いて破り捨てるのに弟の70点のテストは頭を撫
でて褒めることも耐えた
> 私の買ってきた服のセンスを晩御飯の間中ネチネチと馬鹿にされることも耐え
た
> 専業主婦の癖に私に家事を押し付けてきて弟には何もさせないことも耐えた
> 私の携帯や私物はあれこれ理由付けて没収する癖に私より成績悪い弟には何も
しないのも耐えた
http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2016/03/30/081750
いまの結婚前には、相変わらず意地悪姑みたいな実母へ対抗する手段を求めて嫁姑関連の書き込みを読んでいて、夫に「うちの、母親、そんなことしないから大丈夫だよ」と、勘違いせせてしまったこともあるわ
さいきんも、自分が書いたかのような一説を見つけた。
> 私の80点のテストは溜息吐いて破り捨てるのに弟の70点のテストは頭を撫
でて褒めることも耐えた
> 私の買ってきた服のセンスを晩御飯の間中ネチネチと馬鹿にされることも耐え
た
> 専業主婦の癖に私に家事を押し付けてきて弟には何もさせないことも耐えた
> 私の携帯や私物はあれこれ理由付けて没収する癖に私より成績悪い弟には何も
しないのも耐えた
http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2016/03/30/081750
キャンディ・キャンディ (1) 講談社コミックスなかよし (222巻)
2016年3月13日 家族・子育て
一年間のネグレクトが終わって、あの人とほかの家族のいる家に引き取られてからは、マンガが禁止になった。それまでは雑誌「なかよし」が許されていたのだが、禁止になって、誕生会に、同情したのだろう友達が、読み終えた直近3号をくれたことがあったが、即、捨てられた。
「古本をプレゼントにもらうなんて、恥なのよ! わかってるの?」
の怒鳴り声付きで。中学の時にはプレゼントのタイツを、
「肌着をもらうなんて、おかしいことなのよ?」
と、やはり捨てられた。女友達の同級生からで、もちろん新品だったのだが。
ほかにもわけのわからないルールで、友達との仲は裂かれ続けた。引っ越す前の友達からの手紙を隠されたり、先に開封されたり。電話をしていれば親子電話で聞かれていたり。
小学六年から高校卒業まで、あの人の支配する家は、ほとんど牢獄だった。今から思えば抑うつ状態だったのだろう、わたしは睡眠に逃げることが多かった。とにかく、よく寝た。
それが気に入らないのか、部屋のカーテンを外され、シャッターのみが目隠しという時期もあった。毎日、ほとほと疲れ果てていて、学校だけが逃げ場だった。
「古本をプレゼントにもらうなんて、恥なのよ! わかってるの?」
の怒鳴り声付きで。中学の時にはプレゼントのタイツを、
「肌着をもらうなんて、おかしいことなのよ?」
と、やはり捨てられた。女友達の同級生からで、もちろん新品だったのだが。
ほかにもわけのわからないルールで、友達との仲は裂かれ続けた。引っ越す前の友達からの手紙を隠されたり、先に開封されたり。電話をしていれば親子電話で聞かれていたり。
小学六年から高校卒業まで、あの人の支配する家は、ほとんど牢獄だった。今から思えば抑うつ状態だったのだろう、わたしは睡眠に逃げることが多かった。とにかく、よく寝た。
それが気に入らないのか、部屋のカーテンを外され、シャッターのみが目隠しという時期もあった。毎日、ほとほと疲れ果てていて、学校だけが逃げ場だった。
『2020年の大学入試問題』 (講談社現代新書)
2016年3月6日 家族・子育て
この時期になると思い出す。
関東ではあるけど、千葉か埼玉のどこか遠くの大学に、きょうだいの一人Aの受験結果を見に行かされたこと。
きょうだいたちは、全員があの人にスポイルされて、成績はずっと悪かった。
どうスポイルされたかというと、家事をわたしが一人だけやらされ、成績も悪くないのに、勉強に関係ないと名作マンガも色つきリップもどんどん捨てられているのを目前に、家事はやらなくていい、お風呂や病院には召使のようにわたしが付き添う、成績が悪いのにヤンキーマンガのようなくだらないマンガは捨てられず、それどころか専用に本棚まで作ってもらえ、わたしの持ち物を興味本位で持ち出して庭に埋めても怒られず、という生活だったので、すっかり増長してしまったのだ。
当然、高校もレベルの低いところ。受けた大学も聞いたことのない学校。そしてそんな大学さえ受からないきょうだいAに、その後も夢物語みたいな専門学校にあの人はお金を出してやり、ますます社会への適応は遅れた。
そのきょうだいAが専門学校を出て、やはり就職口もなく、花屋になりたい、と言い出したことがある。かつて、わたしが大学時代に付き合って別れた元彼が、その頃、花屋に勤めていた。あまりよい別れ方ではなかったのだが、あの人は「あの彼に花屋に勤めるってどんな感じか聞くのって、世間におかしいって思われるかしら?」と言う。
世間の前に、娘がイヤだろうとは思わないのか、と呆れた。
きょうだいAはその後もネズミ講に引っかかり、こちらにしつこく勧誘してきたり、結婚したと思ったら浮気旅行に行ったり、奥さんの名義で高い車のローンを組もうとしたりして離婚。カード破産からの自己破産で、一時期は生活保護をもらうまでになった。
今は自活しているらしいが、おそらく彼は、知能指数がギリギリで低い、かわいそうな人なんだろう。あの人が、きちんと子どもそれぞれを観察して育てていたなら、あんなことにはならなかっただろうと思う。
その意味で、きょうだいもまた、あの人の犠牲者なのだ。
関東ではあるけど、千葉か埼玉のどこか遠くの大学に、きょうだいの一人Aの受験結果を見に行かされたこと。
きょうだいたちは、全員があの人にスポイルされて、成績はずっと悪かった。
どうスポイルされたかというと、家事をわたしが一人だけやらされ、成績も悪くないのに、勉強に関係ないと名作マンガも色つきリップもどんどん捨てられているのを目前に、家事はやらなくていい、お風呂や病院には召使のようにわたしが付き添う、成績が悪いのにヤンキーマンガのようなくだらないマンガは捨てられず、それどころか専用に本棚まで作ってもらえ、わたしの持ち物を興味本位で持ち出して庭に埋めても怒られず、という生活だったので、すっかり増長してしまったのだ。
当然、高校もレベルの低いところ。受けた大学も聞いたことのない学校。そしてそんな大学さえ受からないきょうだいAに、その後も夢物語みたいな専門学校にあの人はお金を出してやり、ますます社会への適応は遅れた。
そのきょうだいAが専門学校を出て、やはり就職口もなく、花屋になりたい、と言い出したことがある。かつて、わたしが大学時代に付き合って別れた元彼が、その頃、花屋に勤めていた。あまりよい別れ方ではなかったのだが、あの人は「あの彼に花屋に勤めるってどんな感じか聞くのって、世間におかしいって思われるかしら?」と言う。
世間の前に、娘がイヤだろうとは思わないのか、と呆れた。
きょうだいAはその後もネズミ講に引っかかり、こちらにしつこく勧誘してきたり、結婚したと思ったら浮気旅行に行ったり、奥さんの名義で高い車のローンを組もうとしたりして離婚。カード破産からの自己破産で、一時期は生活保護をもらうまでになった。
今は自活しているらしいが、おそらく彼は、知能指数がギリギリで低い、かわいそうな人なんだろう。あの人が、きちんと子どもそれぞれを観察して育てていたなら、あんなことにはならなかっただろうと思う。
その意味で、きょうだいもまた、あの人の犠牲者なのだ。
ものごころ着くか着かないかで、音楽を習得する最初の機会が、あの人に怒鳴られ叩かれ蹴られ抓られ針で刺されというものだったので、音楽には義務感しかなかった。
ようやく音楽を楽しめる気持ちになって、中学でブラバン部に入ろうとしたら、担当楽器が決まった日に、運動部に入るように言われた。
その運動部ではやる気がなかったので、先輩にいじめられた。学年が変わる時にブラバン部に戻されたが、一年間のブランクがあるので、好きな楽器は選べないし、同時に入部した後輩には気を遣わせるし、周りにひどく迷惑をかけた。
それからだいぶ経って、同窓会の恩恵でいい先生につけると聞いて、バイオリンをやりたいから使っていない楽器を貸してほしいとあの人に言ったが、
「本当にちゃんとやるのぉ?」
と、やらないでしょ、どうせ、というしかめ面で言われたので、これ以上言ってもいいことにはならないと、引っ込めた。
それからまた何年か経って、親戚のいるときに、わたしがお三味を持ち腐れさせているのを、親戚が
「厳しい先生だけどあたしの紹介で行ってみる?」
と言ってくれたのに、即座に
「ダメよっ、ダメダメ!」
と断られてしまい、これもあとから親戚に紹介してもらっても、却って親戚の迷惑になるなとあきらめた。
で、あの人はずっとバイオリンを続けているが、送られてきた発表会の音源をCDに焼いてあげた夫によると、
「酷い演奏。聞かない方がいいよ」
とのこと。
こちらが普通に話す声が聞き取れないと言い、こちらも声を張り上げて話すのが疲れるので、補聴器を着けてくれと何度か頼んだが、見栄だがなんだかしらないが着けないでいるうちに、音感がおかしくなったらしい。
笑われているんだろうな、と思うが、それについて、もはやいい気味とも思わない。
ようやく音楽を楽しめる気持ちになって、中学でブラバン部に入ろうとしたら、担当楽器が決まった日に、運動部に入るように言われた。
その運動部ではやる気がなかったので、先輩にいじめられた。学年が変わる時にブラバン部に戻されたが、一年間のブランクがあるので、好きな楽器は選べないし、同時に入部した後輩には気を遣わせるし、周りにひどく迷惑をかけた。
それからだいぶ経って、同窓会の恩恵でいい先生につけると聞いて、バイオリンをやりたいから使っていない楽器を貸してほしいとあの人に言ったが、
「本当にちゃんとやるのぉ?」
と、やらないでしょ、どうせ、というしかめ面で言われたので、これ以上言ってもいいことにはならないと、引っ込めた。
それからまた何年か経って、親戚のいるときに、わたしがお三味を持ち腐れさせているのを、親戚が
「厳しい先生だけどあたしの紹介で行ってみる?」
と言ってくれたのに、即座に
「ダメよっ、ダメダメ!」
と断られてしまい、これもあとから親戚に紹介してもらっても、却って親戚の迷惑になるなとあきらめた。
で、あの人はずっとバイオリンを続けているが、送られてきた発表会の音源をCDに焼いてあげた夫によると、
「酷い演奏。聞かない方がいいよ」
とのこと。
こちらが普通に話す声が聞き取れないと言い、こちらも声を張り上げて話すのが疲れるので、補聴器を着けてくれと何度か頼んだが、見栄だがなんだかしらないが着けないでいるうちに、音感がおかしくなったらしい。
笑われているんだろうな、と思うが、それについて、もはやいい気味とも思わない。
『おふろ』 (あけて・あけてえほん)
2016年2月26日 家族・子育て
一年間のネグレクトの前、まだあの人ときょうだいと住んでいたとき、性別の違うきょうだいとお風呂に入れ、と言われて困ったことがある。
性別の違う身体の洗い方を習っていないので、どうしたらいいか、わからなかったのだ。いつものあの人の、やり方を教えないで放り出す方式だ。
そこで困って、お湯の温度を確かめずにきょうだいの、触りたくもない股間にぶっかけた。熱かったらしい。
叫び声で駆け付けたあの人に、「子どもが作れなくなったらどうするの!」と怒鳴られたが、そもそも小学校四年より前で、股間と妊娠の関連性さえわからず、その叱責は意味をなさなかった。
ある意味、あの人はきちんと説明責任を果たさないことで、間接的にわたしの下のきょうだいに虐待をしたことになるのではないだろうか。
性別の違う身体の洗い方を習っていないので、どうしたらいいか、わからなかったのだ。いつものあの人の、やり方を教えないで放り出す方式だ。
そこで困って、お湯の温度を確かめずにきょうだいの、触りたくもない股間にぶっかけた。熱かったらしい。
叫び声で駆け付けたあの人に、「子どもが作れなくなったらどうするの!」と怒鳴られたが、そもそも小学校四年より前で、股間と妊娠の関連性さえわからず、その叱責は意味をなさなかった。
ある意味、あの人はきちんと説明責任を果たさないことで、間接的にわたしの下のきょうだいに虐待をしたことになるのではないだろうか。
『平野レミと明日香の嫁姑ごはん物語』
2016年2月22日 家族・子育て
ある程度、わたしの体が大きくなって、身体的な虐待ができなくなると、あの人は意地悪姑が嫁をいびる時のような嫌味をぶつけてくるようになった。
一年間のネグレクトが終わって家族のもとに引き取られると、わたしには年下のきょうだいの世話が待っていた。わたしには、彼らが風邪を引くと病院に連れて行く役目があった。病院には女性週刊誌があって、そこに描かれた意地悪姑の言動は、まさにあの人のわたしに対するそれだった。しかし、わたしにはなぜ自分がそんな目にあわなければならないのかが、わからなかった。
あの人の意地悪姑ぶりは、家の中だけではない。外出先で知り合いに
「お嬢さん、大きくなって」
と、言われれば
「女の子なのに、背ばっかり大きくなって、困ってますのよ」
と、こき下ろす。
わたしは長い間、ドラマや絵本の仲睦まじい母と娘の姿は建前で、どこの家庭の母も、娘にはそのように接すると思っていた。
わたしは自分をかけがえのない存在、価値のある存在だと思ったことはない。そのため、人から評価を得るのに、ハタチを過ぎても、社会的地位の高かった祖父や父を引き合いに出すという、今から思えば赤面ものの言動をしていた。
一年間のネグレクトが終わって家族のもとに引き取られると、わたしには年下のきょうだいの世話が待っていた。わたしには、彼らが風邪を引くと病院に連れて行く役目があった。病院には女性週刊誌があって、そこに描かれた意地悪姑の言動は、まさにあの人のわたしに対するそれだった。しかし、わたしにはなぜ自分がそんな目にあわなければならないのかが、わからなかった。
あの人の意地悪姑ぶりは、家の中だけではない。外出先で知り合いに
「お嬢さん、大きくなって」
と、言われれば
「女の子なのに、背ばっかり大きくなって、困ってますのよ」
と、こき下ろす。
わたしは長い間、ドラマや絵本の仲睦まじい母と娘の姿は建前で、どこの家庭の母も、娘にはそのように接すると思っていた。
わたしは自分をかけがえのない存在、価値のある存在だと思ったことはない。そのため、人から評価を得るのに、ハタチを過ぎても、社会的地位の高かった祖父や父を引き合いに出すという、今から思えば赤面ものの言動をしていた。
『毒親の棄て方: 娘のための自信回復マニュアル』
2016年2月17日 家族・子育て
あの人から、また、大量の、いやげもの。
やけに大きいけど皮と身の間が空いているみかん。
届いた時点でカビてたり、腐り始めていたり。
外れ果実に当たって捨てる夫に、申し訳なく思う。
そう、いまだにあの人は、わたしの自信を削り取っているのだ。
負けないけどね。
そして夫と二人で、みかんがだいぶ悪くなっていたことには触れず、型通りの季節の挨拶と、お礼を書いて送る、いつもの作業をすませる。
やけに大きいけど皮と身の間が空いているみかん。
届いた時点でカビてたり、腐り始めていたり。
外れ果実に当たって捨てる夫に、申し訳なく思う。
そう、いまだにあの人は、わたしの自信を削り取っているのだ。
負けないけどね。
そして夫と二人で、みかんがだいぶ悪くなっていたことには触れず、型通りの季節の挨拶と、お礼を書いて送る、いつもの作業をすませる。
『不眠とうつ病 』(岩波新書)
2016年2月7日 家族・子育て
憤りで、眠れない。月に1〜3回くらい、こういう日がある。
憤りの元は、なぜ自分はあんなにも虐待されなければならなかったのか、ということ。
成長過程の子どもの頭というのは、叩くと一回につき、数千の脳細胞が死に、そして復活はしないのだという。ほかの脳細胞がその死んだ脳細胞の分の働きを、担える分は余計に担って働くのだそうだけど、当然、パフォーマンスは落ちる。
わたしは幼稚園に入る前から、ピアノのお稽古という名目で、毎日のように頭を、顔を、肩を叩かれ、どつかれ、脚は蹴られ、演奏を間違えた指は叩かれたり抓られたり待ち針を刺されたりしていた。それはわたしが育って暴力をふるいにくいサイズになるまで、少なくとも5年は続いたと思う。
つまり、あの人は、自分で能力を削いだ人間に、それ以上のパフォーマンスをさせようと無駄な努力をしていたのだ。
ちなみに、なにかを習得させる際に、ヒステリックに叱ったり暴力をふるったりしながら育てると、恐怖によって習得が早まったかのように見えたりもするが、脳内ではシナプスが萎縮していて、習得させようとするものへの苦手意識が学習されてしまうのだという。
たしかに、わたしにとっては中学でピアノのレッスンをしないですむようになるまでは、あれは拷問にかかりに行くのと同じようなものだった。
そして、親同士が暴力をふるったり、ほかのきょうだいが暴力をふるわれたりするのを見せるのも、虐待になるのだという。
あの人が父にヒステリックにあたるのは、わたしもきょうだいも慣れっこだった。あの人は懐かしい笑い話と思っているようだが、こんなことがあった。
翌日が結婚記念日で日曜、教会に家族揃って礼拝に行くことになっていたとき、父がぐでんぐでんに寄って午前様で帰ってきた。正体なく布団ではなく窓際の床に、着替えもせずにうつ伏せになり、寝始めた父に、あの人は積み木の箱を持ち上げ、中身をぜんぶぶつけた。
それでも父が起きないので、積み木を片付け始めたのを、騒ぎで目が覚めたわたしは2段ベッドの上から見ていた。積み木は派手に散らばって、家具の影に隠れて、あの人からは見えないものもあった。それを、わたしやきょうだいは、「まだあそこにあるよ」「あっちにも」と、冷静に指摘したのだ。
親のDVの後片付けを、幼い、ティーンになってさえいない子どもが冷静に手伝う。今にして思えば恐ろしいことだ。それだけ、わたしたちは暴力に慣れ、慣らされてしまっていたのだから。
家族が虐待されるのを見せるのも虐待なら、あの人が自分の成長過程や、結婚してからの理不尽を、ある時期から悪感情のゴミ箱のように語り始めたのも、虐待になるのだろうか。
それから、「今度は誰を恋人にしようかしら」と、暗に、お前の父親との結婚生活はつまらない、ということを言って来ていたのも、それに入るだろうか?
そして、そんなことを言っていたのに、父に女友達からラブレターが来たことを憤りとともにぶつけてきたのも?
そういうことを考えていると、憤りで涙が出、そしてお腹が空いてきて、夜中に起き出して馬鹿食いしてしまう。そして、今度はなかなか消化できず、眠れず、胸焼けとともに目覚めるのだ。
憤りの元は、なぜ自分はあんなにも虐待されなければならなかったのか、ということ。
成長過程の子どもの頭というのは、叩くと一回につき、数千の脳細胞が死に、そして復活はしないのだという。ほかの脳細胞がその死んだ脳細胞の分の働きを、担える分は余計に担って働くのだそうだけど、当然、パフォーマンスは落ちる。
わたしは幼稚園に入る前から、ピアノのお稽古という名目で、毎日のように頭を、顔を、肩を叩かれ、どつかれ、脚は蹴られ、演奏を間違えた指は叩かれたり抓られたり待ち針を刺されたりしていた。それはわたしが育って暴力をふるいにくいサイズになるまで、少なくとも5年は続いたと思う。
つまり、あの人は、自分で能力を削いだ人間に、それ以上のパフォーマンスをさせようと無駄な努力をしていたのだ。
ちなみに、なにかを習得させる際に、ヒステリックに叱ったり暴力をふるったりしながら育てると、恐怖によって習得が早まったかのように見えたりもするが、脳内ではシナプスが萎縮していて、習得させようとするものへの苦手意識が学習されてしまうのだという。
たしかに、わたしにとっては中学でピアノのレッスンをしないですむようになるまでは、あれは拷問にかかりに行くのと同じようなものだった。
そして、親同士が暴力をふるったり、ほかのきょうだいが暴力をふるわれたりするのを見せるのも、虐待になるのだという。
あの人が父にヒステリックにあたるのは、わたしもきょうだいも慣れっこだった。あの人は懐かしい笑い話と思っているようだが、こんなことがあった。
翌日が結婚記念日で日曜、教会に家族揃って礼拝に行くことになっていたとき、父がぐでんぐでんに寄って午前様で帰ってきた。正体なく布団ではなく窓際の床に、着替えもせずにうつ伏せになり、寝始めた父に、あの人は積み木の箱を持ち上げ、中身をぜんぶぶつけた。
それでも父が起きないので、積み木を片付け始めたのを、騒ぎで目が覚めたわたしは2段ベッドの上から見ていた。積み木は派手に散らばって、家具の影に隠れて、あの人からは見えないものもあった。それを、わたしやきょうだいは、「まだあそこにあるよ」「あっちにも」と、冷静に指摘したのだ。
親のDVの後片付けを、幼い、ティーンになってさえいない子どもが冷静に手伝う。今にして思えば恐ろしいことだ。それだけ、わたしたちは暴力に慣れ、慣らされてしまっていたのだから。
家族が虐待されるのを見せるのも虐待なら、あの人が自分の成長過程や、結婚してからの理不尽を、ある時期から悪感情のゴミ箱のように語り始めたのも、虐待になるのだろうか。
それから、「今度は誰を恋人にしようかしら」と、暗に、お前の父親との結婚生活はつまらない、ということを言って来ていたのも、それに入るだろうか?
そして、そんなことを言っていたのに、父に女友達からラブレターが来たことを憤りとともにぶつけてきたのも?
そういうことを考えていると、憤りで涙が出、そしてお腹が空いてきて、夜中に起き出して馬鹿食いしてしまう。そして、今度はなかなか消化できず、眠れず、胸焼けとともに目覚めるのだ。
『「はずれ先生」にあたったとき読む本』
2016年2月5日 家族・子育て
外れ親にあたってしまったら、どうすればいいんだろう。学校は時間が過ぎれば終わるけど、血縁関係は終われない。どうしてもあの人の世話をしろ、と言われたら、ここにメモしたことを縷々、あの人に語りかけていこうという昏い思いが、今のここへのモチベーションだったりする。それで、向こうから断りを入れてくれたらなあ。
さてそろそろ時系列的に小学生時代に戻ろう。小学2年と3年のまる2年間、わたしは痩せたNと太ったFの2人組に、ずっと虐められていた。一度、担任に話したが、「先生に言いつけたでしょ?」と、ますます虐めがひどくなっただけだった。別の、聡いクラスメイトに「呼び出されてもいちいち行かなくていいんだよ?」と、言われたけれど、家庭内で虐げられ癖がついているせいか、虐めっ子に強く出られると断れないのだった。
2人組はなぜか1体1になると普通の友だちのように振る舞うのが、わたしにはわけがわからなかった。そのうちの一人のNには、永田町の高級マンションの自宅に何度か連れて行かれ、その帰りにNの父のやはり永田町にあるオフィスに連れて行かれ、アイスコーヒーというものを振る舞われた。わたしはいつも虐めてくるNの自宅にご招待されても、立派な親御さんのオフィスに通されてもまったくリラックスなぞできなかった。
そのせいか、結局はあの人に連絡が行き、永田町駅まで迎えに来るということが何度かあった。普通なら楽しくもなさそうな娘の様子に、なにかおかしいと思うのだろうが、思っていたのかもしれないが、あの人は解決しようとはしなかったようだ。
それは親として、大人として恥ずべきことではないか? と大人になったわたしは思うのだが、以前にここで書いたかもしれないが、あの学校で虐められていた、とその頃の同級生と話していたとき、まるで虐められていた方が悪いかのように、「そうじゃないかと思ってた!」と言い放ったのには、元同級生と顔を見合わせたものだ。
そうじゃないかと思っていたなら、なぜそこに娘を独り、置き去りにしたのか? 今ではこれを含むさまざまな家庭内での虐め、モラハラは、あの人がされたことをわたしに繰り返していたのではないかと思っている。
ちなみにこの独りでの置き去りは、戦争時の疎開の繰り返しだと思う。ただ、あの人は食べ物にも事欠くとか、そういう戦争時、戦後の苦労はまったくしていない。
さてそろそろ時系列的に小学生時代に戻ろう。小学2年と3年のまる2年間、わたしは痩せたNと太ったFの2人組に、ずっと虐められていた。一度、担任に話したが、「先生に言いつけたでしょ?」と、ますます虐めがひどくなっただけだった。別の、聡いクラスメイトに「呼び出されてもいちいち行かなくていいんだよ?」と、言われたけれど、家庭内で虐げられ癖がついているせいか、虐めっ子に強く出られると断れないのだった。
2人組はなぜか1体1になると普通の友だちのように振る舞うのが、わたしにはわけがわからなかった。そのうちの一人のNには、永田町の高級マンションの自宅に何度か連れて行かれ、その帰りにNの父のやはり永田町にあるオフィスに連れて行かれ、アイスコーヒーというものを振る舞われた。わたしはいつも虐めてくるNの自宅にご招待されても、立派な親御さんのオフィスに通されてもまったくリラックスなぞできなかった。
そのせいか、結局はあの人に連絡が行き、永田町駅まで迎えに来るということが何度かあった。普通なら楽しくもなさそうな娘の様子に、なにかおかしいと思うのだろうが、思っていたのかもしれないが、あの人は解決しようとはしなかったようだ。
それは親として、大人として恥ずべきことではないか? と大人になったわたしは思うのだが、以前にここで書いたかもしれないが、あの学校で虐められていた、とその頃の同級生と話していたとき、まるで虐められていた方が悪いかのように、「そうじゃないかと思ってた!」と言い放ったのには、元同級生と顔を見合わせたものだ。
そうじゃないかと思っていたなら、なぜそこに娘を独り、置き去りにしたのか? 今ではこれを含むさまざまな家庭内での虐め、モラハラは、あの人がされたことをわたしに繰り返していたのではないかと思っている。
ちなみにこの独りでの置き去りは、戦争時の疎開の繰り返しだと思う。ただ、あの人は食べ物にも事欠くとか、そういう戦争時、戦後の苦労はまったくしていない。
『会話は「最初のひと言」が9割』 (光文社新書 528)
2016年2月3日 家族・子育て
ってほんと、そう思う。
「地味くさい着物ね」
も、
「なにその昔流行ったようなマフラー」
も、久々に顔を合わせた娘に一言めにあの人が言い放った言葉。会話の途中でも、どうかと思うけど、最初の一言でそれが言えるって、どうかしてると思う。
さんざん自信喪失というか、自信失墜、自分を見失うような目に合わせて育ててきて、あの人が満足するような立派な仕事に就いてほしいとか、虫がよすぎる考えだと思う。
満足させてほしかったら、まず相手に満足感や愛され感を与えないと。たびたび、それが足りてないと、わたしもきょうだいたちもサインを発していたのに、よりひどく当たられただけだった。あの人たちは、親に向いてない。
「地味くさい着物ね」
も、
「なにその昔流行ったようなマフラー」
も、久々に顔を合わせた娘に一言めにあの人が言い放った言葉。会話の途中でも、どうかと思うけど、最初の一言でそれが言えるって、どうかしてると思う。
さんざん自信喪失というか、自信失墜、自分を見失うような目に合わせて育ててきて、あの人が満足するような立派な仕事に就いてほしいとか、虫がよすぎる考えだと思う。
満足させてほしかったら、まず相手に満足感や愛され感を与えないと。たびたび、それが足りてないと、わたしもきょうだいたちもサインを発していたのに、よりひどく当たられただけだった。あの人たちは、親に向いてない。
前の離婚のとき、どさくさ紛れにいろいろなものをあの人に持って行かれた。カトラリー類、紅茶の茶器類、その他その他。その中でも今でも惜しいのが、タイトルのポット。
その後、今は別れてしまった彼と住むときには、「彼とうまくいかなくなったときのために預かってあげる」と、家電製品を一切合切、持って行かれた。これは「彼とうまくいかなくなったときのため」などではなく、きょうだいの引っ越し先に相談もなく与えていたことが後でわかった。
ほかにも、わたしに買い与えたはずのコートをだいぶ経って気に入って着ているのに、「やっぱりこれちょうだい」と取り上げること2回。1回はもうあの人サイズに直してから言われた。
どれもこれも、もともとの出資元は実家だから仕方ないといえば、仕方ない。
だから、あの人たちの出資していないわたしの今のうちには、絶対にかかわらせたくない。
その後、今は別れてしまった彼と住むときには、「彼とうまくいかなくなったときのために預かってあげる」と、家電製品を一切合切、持って行かれた。これは「彼とうまくいかなくなったときのため」などではなく、きょうだいの引っ越し先に相談もなく与えていたことが後でわかった。
ほかにも、わたしに買い与えたはずのコートをだいぶ経って気に入って着ているのに、「やっぱりこれちょうだい」と取り上げること2回。1回はもうあの人サイズに直してから言われた。
どれもこれも、もともとの出資元は実家だから仕方ないといえば、仕方ない。
だから、あの人たちの出資していないわたしの今のうちには、絶対にかかわらせたくない。
着物といえば、あの人は自分で
「地味くさい着物ね」
と、言ったくせに、こちらが「着物のことなんだけど」と言ったら、
「キモノ? ああ、和服のことね」
とまた嘲笑するのだった。いまどき、和服以外の衣類をキモノと表現する人もいないたろう。嘲笑するためだけにそういうことを言うとしか思えないのである。
そして、着物に興味のでてきていたそのころのわたしは、あの人は小柄なので、着物は受け継げないと成人式と卒業式のときに知っていたので、どんな帯を持っているのが聞いてみた。すると
「帯? 着物? あなた興味あるなんて言わないから、全部、義妹ちゃんにあげちゃったわよ!」
と、なぜか着物に興味あると言わなかったこちらが悪いかのように憤然として言うのである。そして、興味があるかわからないとしても、この着物にはこういう思い出が、という会話を交わすような、いわゆる普通の母娘関係を構築してこなかったくせに、今になって普通の親子みたいに住まいを訪問したりされたりを望んでくるのである。
とりあえず、様子を見にあちらには行くけれど、わたしのうちには絶対に入れるつもりはない。住所から家の前まで来て、それをわざわざ、こちらに罪悪感を覚えさせようとでもいうのか、手紙に書いて来たけれど。
そして、「誰も招かない」と何かのときに言うためなのか、わたしはこのうちに引っ越して10年近くなるけれど、誰も玄関から奥に入れたことはない。
「地味くさい着物ね」
と、言ったくせに、こちらが「着物のことなんだけど」と言ったら、
「キモノ? ああ、和服のことね」
とまた嘲笑するのだった。いまどき、和服以外の衣類をキモノと表現する人もいないたろう。嘲笑するためだけにそういうことを言うとしか思えないのである。
そして、着物に興味のでてきていたそのころのわたしは、あの人は小柄なので、着物は受け継げないと成人式と卒業式のときに知っていたので、どんな帯を持っているのが聞いてみた。すると
「帯? 着物? あなた興味あるなんて言わないから、全部、義妹ちゃんにあげちゃったわよ!」
と、なぜか着物に興味あると言わなかったこちらが悪いかのように憤然として言うのである。そして、興味があるかわからないとしても、この着物にはこういう思い出が、という会話を交わすような、いわゆる普通の母娘関係を構築してこなかったくせに、今になって普通の親子みたいに住まいを訪問したりされたりを望んでくるのである。
とりあえず、様子を見にあちらには行くけれど、わたしのうちには絶対に入れるつもりはない。住所から家の前まで来て、それをわざわざ、こちらに罪悪感を覚えさせようとでもいうのか、手紙に書いて来たけれど。
そして、「誰も招かない」と何かのときに言うためなのか、わたしはこのうちに引っ越して10年近くなるけれど、誰も玄関から奥に入れたことはない。
マフラーより一年あとか前だろうか、あの人たちに会うのに初めて和装で行ったときも、マフラーのときと同じだった。開口一番、
「地味くさいキモノね!(嘲笑)」
自分が着付けを教えてもいないのに和装で来たら、そこをまず聞くか褒めるかするのが大人の役割なんじゃないだろうか。百歩譲って地味すぎると真剣に思うなら、シックだけどここに明るい色を持ってくると映える、とか言わない限り、地味なままなわけだが。
この頃からあの人は、これまで表情には一瞬しか見てとれなかった性格の悪さが、顔に固定されるようになってきた。このときも、いかにも意地悪そうな、『キャンディ・キャンディ』のイライザのような曲がった口での笑いと、他人を馬鹿にする眉毛の歪みがはっきりあらわれていた。今は眉毛の歪みがいつ会っても(と言っても夫同伴で年に一度会うかどうかだが)顔に貼り付いている。
「地味くさいキモノね!(嘲笑)」
自分が着付けを教えてもいないのに和装で来たら、そこをまず聞くか褒めるかするのが大人の役割なんじゃないだろうか。百歩譲って地味すぎると真剣に思うなら、シックだけどここに明るい色を持ってくると映える、とか言わない限り、地味なままなわけだが。
この頃からあの人は、これまで表情には一瞬しか見てとれなかった性格の悪さが、顔に固定されるようになってきた。このときも、いかにも意地悪そうな、『キャンディ・キャンディ』のイライザのような曲がった口での笑いと、他人を馬鹿にする眉毛の歪みがはっきりあらわれていた。今は眉毛の歪みがいつ会っても(と言っても夫同伴で年に一度会うかどうかだが)顔に貼り付いている。
子ども時代から離れて
2016年1月23日 家族・子育て
近過去のあの人のモラハラを書いておこう。なんだか連日の児童虐待のニュースで自分の子ども時代を書くのがつらい。
このマフラー、買ったばかりで巻いてあの人たちに会ったときのあの人の最初の一言。
「なにその昔流行ったようなマフラー(嘲笑)」
当時の職場ではかわいいと評判だったマフラー。その時は今の、おしゃれにうるさい夫と結婚したあとだったが、夫にも特になにもネガティブなことは言われていない。
このあたりから、ああ、この人は自分が時代に着いていけてないことに気づいてないんだ、と思い始めた気がする。
このマフラー、買ったばかりで巻いてあの人たちに会ったときのあの人の最初の一言。
「なにその昔流行ったようなマフラー(嘲笑)」
当時の職場ではかわいいと評判だったマフラー。その時は今の、おしゃれにうるさい夫と結婚したあとだったが、夫にも特になにもネガティブなことは言われていない。
このあたりから、ああ、この人は自分が時代に着いていけてないことに気づいてないんだ、と思い始めた気がする。
長い冬休み(下) (岩波少年文庫 ランサム・サーガ)
2016年1月16日 家族・子育て
小5で育児放棄された一年を除いて、学校が休みになると、あの人とずっと過ごさなければならない。父が赴任先から帰ってくることで、母の関心がそちらに向いて、楽なときもあるが、子どもの成長過程でよくあることを、さも重大な過失のように「困るわぁ困るわぁ」などと言いつけるあの人のせいで、自分は異常に困った子どもなのか? と悩むことにもなった。
あの人にされた理不尽な虐待を、わたしが父に伝えようとすると、あの人は困り笑顔で「なに言ってるの、もう! ウソばっかり言って!」と言いながら、わたしを抓ったり頭を小突いたりする。
それは体の後ろに手を回して素早く鋭く行われるので、おそらく父には見えず、またわたしが痛さで言葉を失うに十分だった。そして、本当のことを言っているのに、「ウソばっかり言って!」と言われることで、逃避として児童文学を読んでいたこともあり、現実とそうでないことの境界がはっきりしなくなっていった。
加えて、父のいない日常に躊躇なく手をあげられるせいで、じきにわたしは誰かが自分のそばで手をさっと動かすだけで、ビクッとするようになった。
この癖のために、小5の育児放棄が終わって男女共学の小学校に転校してから、わたしはいじめたい盛りの男子にいじめられるようになる。
あの人にされた理不尽な虐待を、わたしが父に伝えようとすると、あの人は困り笑顔で「なに言ってるの、もう! ウソばっかり言って!」と言いながら、わたしを抓ったり頭を小突いたりする。
それは体の後ろに手を回して素早く鋭く行われるので、おそらく父には見えず、またわたしが痛さで言葉を失うに十分だった。そして、本当のことを言っているのに、「ウソばっかり言って!」と言われることで、逃避として児童文学を読んでいたこともあり、現実とそうでないことの境界がはっきりしなくなっていった。
加えて、父のいない日常に躊躇なく手をあげられるせいで、じきにわたしは誰かが自分のそばで手をさっと動かすだけで、ビクッとするようになった。
この癖のために、小5の育児放棄が終わって男女共学の小学校に転校してから、わたしはいじめたい盛りの男子にいじめられるようになる。
『長い冬休み』(上) (岩波少年文庫 ランサム・サーガ)
2015年12月30日 家族・子育て
学校の休み、というのはつらい時期だった。朝から晩まで、あの人の支配下にあるからだ。
今日は友達と遊んじゃだめ。なんでって? 昨日、友達と遊びに行ったから。
意味がわからない。宿題が終わってないとか、家の用事がすんでないとか、そういう理由ではないのだ。
勉強するか、親の揃えた活字の本を読んでいれば、まあまあ静かだったので、わたしは家にいるときには常に本を読んでいた。本は、自分の縛り付けられている現実からの避難所だった。
今日は友達と遊んじゃだめ。なんでって? 昨日、友達と遊びに行ったから。
意味がわからない。宿題が終わってないとか、家の用事がすんでないとか、そういう理由ではないのだ。
勉強するか、親の揃えた活字の本を読んでいれば、まあまあ静かだったので、わたしは家にいるときには常に本を読んでいた。本は、自分の縛り付けられている現実からの避難所だった。
ねずみくんのクリスマス (ねずみくんの絵本 19)
2015年12月26日 家族・子育て
そういえば、ネグレクトされてた小5のクリスマスや年末年始、どうやって過ごしていたのか、さっぱり記憶がない。
クリスマスだけじゃなく、遠足の準備とかどうしたのかも、記憶にない。
誕生日に関しては、どうしても見たい番組があって、日課の野球番組視聴を譲らない祖父に「あたし今日、誕生日なんだよ?!」と叫んでチャンネル権をもぎ取り、泣きながら30分の番組を見た覚えがある。
クリスマスだけじゃなく、遠足の準備とかどうしたのかも、記憶にない。
誕生日に関しては、どうしても見たい番組があって、日課の野球番組視聴を譲らない祖父に「あたし今日、誕生日なんだよ?!」と叫んでチャンネル権をもぎ取り、泣きながら30分の番組を見た覚えがある。
『私は私。母は母。〜あなたを苦しめる母親から自由になる本』
2015年12月23日 家族・子育て
この本も読んでみようかな。
☆ ☆ ☆
小5で一年間、ネグレクトされたあとに、結局また、父やきょうだいや、あの人と暮らすことになった。
すると今度もまた、囚人のように扱われる羽目になった。
あとになって、わたしが高校生、大学生になってから、あの人は、自分が子どもの頃や高校生のときにされた心理的虐待や、結婚してからの実家のサポートのなさをだらだらと垂れ流していたが、要するに、自分がされた嫌なことを逐一、わたしに味合わせようとしてきたのだ。
子どもは親のカウンセラーではないし、サンドバッグでもないのに。
☆ ☆ ☆
小5で一年間、ネグレクトされたあとに、結局また、父やきょうだいや、あの人と暮らすことになった。
すると今度もまた、囚人のように扱われる羽目になった。
あとになって、わたしが高校生、大学生になってから、あの人は、自分が子どもの頃や高校生のときにされた心理的虐待や、結婚してからの実家のサポートのなさをだらだらと垂れ流していたが、要するに、自分がされた嫌なことを逐一、わたしに味合わせようとしてきたのだ。
子どもは親のカウンセラーではないし、サンドバッグでもないのに。
小学5年で、独房に入れられるように、育児放棄された
父の転勤で、わたし以外の家族は父と住み、わたしだけ、祖父母の家に残された
もともと母の実家の祖父母宅の二階に、家族で住んでいたのだけれど、小さなときから親しんできた、
ぬいぐるみ
絵本
書籍
レコード
ちょっとした飾り物
などなど、すべてをあの人は引越し先に持って行った
そしてわたしは、最低限の持ち物だけで、それまでベッドの置いてあった日向の部屋から、キッチン兼食堂に住むよう、強制された
キッチン兼食堂の床は、気の滅入るような暗いオレンジで、かつてあの人が油を盛大にこぼして火事になりかけた痕が残っていた
あの人は、定期的に引越し先からやって来ては、やるように言っておいた問題集が進んでいない、などと言ってはヒステリックに暴れた
しかし、こんな寒々しい環境で、勉強が進むかどうか、考えなかったのだろうか?
TVは禁止されていたので(というか、そもそも熱心な野球ファンの祖父にチャンネル権があったから、見られないことはわかっていたし)、クラスメイトとは話題が合わず、独裁担任と連動するかたちで虐められてもいた
後年、虐められてたし、と当時からの友達と話しているのを聞いたあの人は、「そうじゃないかと思ってた!」と、芝居がかってため息と共に言った
子どもが虐められているのに、助けようともしなかった、という印象を他人に与えるとは、わかっていないようで、友達とわたしは目配せしあった
そんな苦悩がすべて顔に出ていたのか、背の高さもあいまってか、美容院では大学生だと思われていた
そこで、二世帯住宅のままの二階の玄関からわたしは夜遊びに出るようになった
学業成績はさほど落ちなかったが、授業中の態度は悪く、独裁担任にはますます酷く当たられるようになった
幼稚園からのクラスメイトが帰宅後、彼女の親に、あれはひどいと抗議してくれたこともあったくらいの酷さだった
結局は、その独裁担任が「修学旅行で引率したくないから」と退学勧奨したことで、わたしはあの人たちの引越し先に行って住むようになった
しかし、事態は特によくはならなかった
父の転勤で、わたし以外の家族は父と住み、わたしだけ、祖父母の家に残された
もともと母の実家の祖父母宅の二階に、家族で住んでいたのだけれど、小さなときから親しんできた、
ぬいぐるみ
絵本
書籍
レコード
ちょっとした飾り物
などなど、すべてをあの人は引越し先に持って行った
そしてわたしは、最低限の持ち物だけで、それまでベッドの置いてあった日向の部屋から、キッチン兼食堂に住むよう、強制された
キッチン兼食堂の床は、気の滅入るような暗いオレンジで、かつてあの人が油を盛大にこぼして火事になりかけた痕が残っていた
あの人は、定期的に引越し先からやって来ては、やるように言っておいた問題集が進んでいない、などと言ってはヒステリックに暴れた
しかし、こんな寒々しい環境で、勉強が進むかどうか、考えなかったのだろうか?
TVは禁止されていたので(というか、そもそも熱心な野球ファンの祖父にチャンネル権があったから、見られないことはわかっていたし)、クラスメイトとは話題が合わず、独裁担任と連動するかたちで虐められてもいた
後年、虐められてたし、と当時からの友達と話しているのを聞いたあの人は、「そうじゃないかと思ってた!」と、芝居がかってため息と共に言った
子どもが虐められているのに、助けようともしなかった、という印象を他人に与えるとは、わかっていないようで、友達とわたしは目配せしあった
そんな苦悩がすべて顔に出ていたのか、背の高さもあいまってか、美容院では大学生だと思われていた
そこで、二世帯住宅のままの二階の玄関からわたしは夜遊びに出るようになった
学業成績はさほど落ちなかったが、授業中の態度は悪く、独裁担任にはますます酷く当たられるようになった
幼稚園からのクラスメイトが帰宅後、彼女の親に、あれはひどいと抗議してくれたこともあったくらいの酷さだった
結局は、その独裁担任が「修学旅行で引率したくないから」と退学勧奨したことで、わたしはあの人たちの引越し先に行って住むようになった
しかし、事態は特によくはならなかった